気がついたら33歳になったので俺の半生を語らしてくれ
語らせてもらってもよろしいでしょうか?
ええよ
久しぶりに2ちゃん来るから、なんか緊張するなwww
7年前に半生スレを立てたのを思い出して、久しぶりに振り返りたくなってしまいました。
今も昔もVIP+は変わらないのかな? ごめんけど、書き溜めてないのでその点御愛嬌ください
今から、もう20年近く前、俺はサッカーに明け暮れる、サッカー少年だった。
同時に、盗んだバイクでは走らなかったが多少のやんちゃもするくらいのごくごく普通の少年だった。
ただ、いかんせん勉強はできなかったwww
一年から2年まで、成績は常に体育とか以外はall 2だった
しえん
ただ、新興住宅地に住んでた俺は、兄貴を含め、周りの年上の人たちも含めてそこそこの進学校に
進学していたので、当然の如く俺もそこそこの学校に行けるものと踏んでいた。
これが間違いであったw
とりあえず、模試を受けろという話になり、3年の春に模試を受けてみた。
そこで、衝撃の結末。
3教科で、偏差値31
ただ、千葉のルイ・コスタと呼ばれた男である(なのに、ポジションはサイドハーフ、フィーゴじゃないんかwww)
総体までは、とりあえず、サッカーに専念して、総体で引退して勉強に専念しようと決意したんだ
総体では、見事に、地区予選で敗退した。その後、顧問から衝撃の言葉が
「みんなで、もう一度ジュニアユースの大会で全国を目指そう!!」
「・・・・。」
通例では、うちの中学では、総体で引退だった。だが、ジュニアユースでも3年生も参加する権利はたしかにある。
結局、俺以外のチームメートは全員ジュニアユースに出ることになった。
俺は、勉強に励むことを決意した。なんせ、偏差値31だからな!
数日後、顧問から呼び出しを食らった。
「ジュニアユースには出ないのか?」
「出ません。勉強します。総体前から決めてました。」
「お前はどこ高に行きたいのか?」
「OOか☓☓です」
「おまえじゃ無理だよ。もし、お前が受かったら裸踊りしてやるよ。
スポーツ推薦やるから大会で一緒に思い出作ろう」
今でも覚えてる。大人に静かにキレる感覚を
笑みを浮かべた俺に顧問は説得できたと踏んだのだろう。
顧問が笑った瞬間に、
「2月楽しみにしててくださいね。裸踊りを校庭でしてもらいますから。」
そこから猛勉強が始まった。死にものぐるいの
ただ、偏差値31の男だ。しかも、成績は体育以外オール2だ。推薦は無理だ、
幸い、親が私立の高校を許可してくれたから、私立専願で行けたら、
英国数のみで良かったが、いかんせん
asをAの複数形と思ってるくらいのレベルである。長文を読もうにも何をかいてあるかがわからなかった。
辞書を片手にひたすら単語を貪る日々。
先は見えなかった
そんな中、当時兄貴が通ってた代ゼミの教師にある本を兄貴からもらった。
古文の吉野先生の「だからお前は落ちるんだやれ!」いまは東進かな?
兄貴が一言。
「お前ならできる」
頑張ろうって思えた
吉野先生の勉強方は至ってシンプルだ。やるところまで決めて、終わるまで寝ない。
おk俺でもできそうだ、そこから1日20時間の勉強が始まる。
ある日はインスタントコーヒーをそのまま飲み
ある日は、コンパスで膝をさして眠気を覚ました。
今考えるとcrazyだ
勉強ってやれば確実に伸びる。受験生はいま辛いかもだけど頑張ってね!
そのご、一ヶ月で偏差値50まで持っていけた。国語は30台だったのは覚えてる。
見てるぞ
>>17
THX
2月、受験のシーズン到来。俺は見事に第一志望に合格した。
偏差値31のオール2だった男が、偏差値68の高校に入学が許可された。
地元の人間はみな驚いてた。というより、信じてくれなかったw
ここから数ヶ月は書くことはない。ただ、ひたすら勉強をしていただけだ。
学校にも行かず、ひたすら図書館に籠もり英単語を因数分解をした。
その後、顧問は裸踊りから逃亡して、気がついたら中学を卒業し、無事高校生になった。
だが、無事に進学校に入学はできたが、こちとら半年前まで、イキってるタイプの人間
(今で言う陽キャ?ってやつ?ごめんおじさんだからわからない)
入試が終わった段階で、即金髪に染め上げ、そのノリで高校に入学してしまったのだ。
ほら、みんな真面目な人多いじゃない?進学校って。
完全にラピュタへの道へ
高校に入ったものも、友達とも馴染めずに、授業も思ったほど楽しくなく、
学校が面白くなくなって、休みがちになっていった。
そんなときに、高校のOBだった兄貴からラグビーを進められたんだ
高校時代兄貴は花園を目指してラグビーをしていた。結構、おれの学校のラグビー部はガチで
県内でも二番目に強い学校だった。
練習に見学に行くと、そのまま気がついたら入部させられてたww
その後、ラグビーでも友達が増え、体育会系の友人も少しはでき始め、少しは充実した高校ライフが送れだした。
と思った。
俺が二年に上がると、陰湿ないじめが始まった。
部活がおわると俺のバックの中にゴミがいっぱいになっていたのだ。
じつは、俺が一年だったときの3年は、
兄貴が3年だったときの1年。面倒見のいい兄貴は後輩をかわいがっていたらしい。
だから、3年生は俺をかわいがってくれた。
だが、3年が引退した後、どうなる?
無駄に可愛がられて生意気だった後輩をいじめ始めたのだw
結局人間関係がめんどくさくなって退部した。
だが、体育会系の部活をやめると、脱落者の烙印を押される。
ラグビーをやめ、勉強にも身が入らない俺は
見事に、転落していった。
タバコを吸い始めたのはその頃だった。
酒もどっぷりハマったのはその頃だな。
そこから、軽いアル中になりかけてたんだと思う。
そんな生活を過ごす中、我慢が限界までキたんだろう、おかんが倒れた。
おかんは地元の総合病院に入院した。
いつもみたいに、部屋でタバコを燻りながらビールを飲んでいると兄貴が部屋に入ってきた。
「ちょっといいか?」
「うん」
「おかんが倒れたのは、なんでかな? そろそろ自分でも気づけないから?17歳にもなって」
「とりあえず、今のお前はめちゃくちゃかっこ悪い。生活態度を改めろ。というよりおかんのためにお前が変わらなきゃだめだ」
こんなことを言われた。
そこから、酒に入り浸るのはやめて、勉強を始めた。
ちょうどそのときに定期試験があった。いつも、赤点ギリギリもしくは赤点の俺は頑張って
なんとか見せられる点数をとっておかんの病室に行った。
その後、おかんが退院したが、学校にいっても俺は浮いてたwww
だからつまらなく、正直やめたかった
学校に行くのはおかんを安心させるためだけだった。
楽しみなどなにもなかった。
友達もいなかった。
友達もいなかった。はずだった。
なのに、ネタフリをしている俺にひつこく声をかける男がいた。こいつの名前はけんじだ。
後に、一番の親友となるけんじだ。後日話しを聞くと高2の俺は自殺するんじゃないかと思ってたくらい病んでたらしい。
「飲みに行こうぜ〜」
そういえば、高校のやつと飲みに行くのは初めてだな。学校から帰り私服に着替えて、また合流して土間土間へ向かった。
なんで、10代の頃ってチェーンの飲み屋しか行かないんだろうなw
そこで、ぶちまけた。おかんのこと、ラグビーのこと、自分の不平不満を。
気がついたら、吐いてたww
その後、この飲み会は定期的に行われるようになり、仲間も増えていき、ならず者の会と名付けられた。
そして、けんじのリハビリ?のおかげで学校に楽しく行けるようになった。
そして、数ヶ月がたち進路を決めるときが来る
周りはみんな大学受験をするんだろう。俺もきっとするんだろう。兄貴もした。
当然の様に、兄貴と同じ様に地元の代ゼミに春期講習を受けた。
憧れの吉野先生の授業を受けた、西きょうじ、西谷先生、いろんな人の授業が楽しかった
だけど、高校受験したときと何かが違う。
それが何なのかわからず、もんもんとしていく日々を過ごしていった。
そんな中、俺をいい意味でも悪い意味でも変えてしまう本を本屋で出会ってしまった
まだプロローグやろ
これから面白い展開に、、、
>>36 >>37
最後まで頑張るww
そんなこんなで、高校を卒業と同時にフリーターへ。
ちなみに俺の卒業年で進学しなかったのは、俺とモデルのやつだけだったwww
その後数ヶ月、週7でラーメン屋で働き続けて、金も150万くらい溜まってきた
沢木耕太郎の小説、深夜特急
この瞬間決まった。
「旅に出よう…」
大学受験をやめて、バイトを始めた。海外へ出るために
おかんは理解をするのができなかったみたいだった。
なんで良い高校に入ったのに、大学行かない?
大学行かなくて何をする?
海外に行けばやりたいことが見つかるなんてそんなわけはない。
毎日言い争った。
だが、頑固な俺は一度決めたら譲らない性格でwww
バイト漬けの生活をして、余裕で扶養超えるまで働いてた。いまだから分かるパパごめん
ただ、ひたすら働き続けた。
するとバイトの休憩中に電話がかかってきた。
「今から福島これる?」
「無理です。てかバイトやめようかなと思ってます。」
「2ヶ月住み込みで来れる?時給1100円にするから」
「いまと変わらないじゃないですか!!とりあえず無理です」
そのまま電話を着ると数分後また電話がかかってきた
「福島に来てくれないか?」
「だあああかああら、行かないです。てか誰ですか?」
「OOフードの社長のAです。」
社長から直々に電話北wwwwwwwwwwwwww
話を聞くと、新規店舗の立ち上げに来てほしいとのこと。
そのために稼げるだけ稼がしてやる、飲みにも連れてってやる。だから来い。
まんまと丸め込まれました。
Go to Fukushima
福島での立ち上げでは週7で13時間連続で働き続くけ、
仕事が終わった後、朝まで飲みに行くというCrazyな生活だったけど、かなり充実していた。
JKと付き合って、ニャンニャンしたり、(今頃いい熟女になっているだろう)
そんなこんなで、60万を引っさげて地元へ戻り、退職し、旅の準備を始めた。
とりあえず、バックパッカーといえばカオサンじゃね?
ていうノリで、one way のバンコク行きのチケットを買った。
パスポートを取りに行き、準備が整い、
2005年10月8日 俺は成田からバンコクへ向かった。
このとき、起きていることを何も知らずにこれから始まるたびのワクワク感でいっぱいだった
バンコクに着くと、まだ15年前は今よりもトゥクトゥク走ってて、営業をがっつりかけてくるエネルギッシュなアジアの街だった。
何も知らない俺は、初めての海外、初めてのタクシーでボラれたwww
ぼられながらもなんとかカオサンロードに付き、1泊日本円で、数百円の宿に泊まる。
これから始める旅に心を踊らせながら。
翌日、朝起きて、トゥクトゥクを拾い、駅へ向かった。
目的地はアユタヤだ。
すべてが初めての連続で楽しかった。
一人で海外。木の椅子の電車。途中でやってくる、駅弁の売り子。
すべてが新鮮だった。
もっと絶望的で壮絶かとおもたわ
楽しい人生でうらやしいよ
>>47 人生山あり谷ありですわwww
当時は、日本語のメールは文字化けしてうまく開けないこともあった時代だから、英語で送ってきたんだろう。
そこには、こう書いてあった。
ばあちゃんが死んだ。このメールを見て帰ってこれるなら帰ってこい。
….
アユタヤに着くと、そこもまたエネルギッシュなアジアのトゥクトゥクの運ちゃんの営業がやってくる
まだ、これには慣れていなかったので、またボラれた。
だけど、無事に宿も見つけて、その日は象に乗りにいってビール飲んで就寝した。
まだ、ワクワクといい緊張感で不思議な感覚だ。
その翌日、ネットカフェでメールをチェックすると兄貴からメッセージが入っていた。
ばあちゃんは、俺の根底を作ってくれた人だった。
いつも俺に、「あんたはできる子だから、頑張りんさいね。」
と言ってくれる最後の壁のような人だった。
ばあちゃんがでいるっていうんだから、俺はできるやつなんだ。
と自然に思えた。
間に合うかわからんが、帰ろう、日本へ。
GO to Japan 俺の度は、2泊3日で終わることになるwww
アユタヤからバンコクへ戻り、空港へ行った。
拙い英語で、帰りたい旨を伝える、なんとかチケットがほしい。
すると、怪しいおっさんがゾロゾロやってくる、
「TICKETがほしいのか?」
「いくら??」
「150万バーツ」
「FuCK!!」
こいつ、50万でふっかけてきやがった。さすがに俺でも分かる
だが、搭乗時刻は刻一刻と迫ってくる。
とりあえず…値切ろう。
俺も生命力が強くなってきたんだな、少しはww
100万バーツまでは値切ったが、それ以上は無理だった。
根負けだ。金と婆さんの葬式天秤にかけたら、ばあちゃんに最後に挨拶をすることだった。
しょうがない、日本円で30万円を引き換えにTICKETを受けとり、日本へ帰国することになった
駄文に付き合ってくれてありがとうございます。
落ちてなければ、また来ます。
睡魔がやばいのでここで一旦落ちます。
まともな所しか乗ったことないけどタイは国際便でもこんなおっさんがダフ屋みたいに航空券売ってくんのか?
それで乗れんのか?
>>55
こっちでいうダフ屋というか、ブローカーみたいな感じ。
多分、その時に売ってたチケットブースの人たちとグルだったんだと思う。
翌朝、俺は関空に降り立った。半年以上は日本には帰らないつもりだったが、まさかの2泊3日のタイ旅行になってしまった。
そこから、はどうやって婆さんが眠る広島までいったかは覚えていない。
気がついたら、そこは広島駅のホームだった。
広島に着き、両親、兄貴、いとこの携帯に電話してもつながらなかった。
おそらく、告別式の最中だったんだな。
とりあえず、駅にいてもしょうがないので、タクシー乗り場へ向かった。
「火葬場に向かってください」
「何個かあるけど、どこ?」
「一番大きいところにお願いします」
そう一言だけ伝え、小さい頃からのばあちゃんとの思い出を振り返っていた。
気がつくと、火葬場につき、
運ちゃんに少し待っててもらうと
火葬場の職員に、事情を話し、婆さんの名前を告げると、15分後くらいに来る予定であることが わかった。
安心したのかバックパックを置き入り口に座り込んでいると
一台のマイクロバスが中に入ってきた、じいさん、親父、おかん、兄貴、いとこたちの顔がはっきりと見えた。
完全に来れないと皆は思っていたのだろう。
いとこはバスから走り出し俺にハグしてきた。
その後、時間は少なかったが、婆さんに別れを告げることができた。
火葬している間が地獄だったwww
なんせ、ヨレヨレのTシャツにジーパンにバカでかいバックパック背負って
髭面の男が、フォーマルな格好の人たちに囲まれているんだからwww
遠い親戚たちの中には、「兄弟二人いると一人はおかしくなるのよね〜」とか
吐かしてた。
うるせえ。
おかんも爺さんに「ちょっとこの子に大学行くように言ってください」とお願いしていたが
が爺さんは
「若いうちは、色々経験したほうがいい。じゃないといい料理人になれない」
俺がラーメン屋でバイトをしていたので、勝手に将来料理人になるものと勘違いしていたwww
葬式を無事に?終わらせ、東京に戻ると謎の高熱にうなされた。
41度オーバーの高熱が続き、病院で点滴をしても治らない。
そこで、まさかの緊急入院。
熱にうなされながら思った、婆さんのなくなった10月8日。俺が旅だった、その日。
きっと婆さんが行くなって言ってたんだなと思った。
じゃあ、何しよう?これから。入院中は思考のエンドレスリピートに入ってしまったwww
とりあえず、英語が喋れないと旅もつまらなそうだということだけは、2泊3日の旅で実感した。
英語圏に行こう、残りの100万円でできることを考えた。
AUSかNZにワーホリでも行こうかと考えたが、チケット代を差し引くと貯金残高がわずかに足らない。
親に金を借りるわけにいかないし、またバイトをするのもめんどうくさい。
とりあえず、3ヶ月ビザギリまで滞在してそれから考えよう。
宿泊費を無料にするため、ファームステイ先を探し、NZに飛び立った。
今のところただのバカでおもしろいところはないな
みてるぞ
批判はほっといて続きオナシャス
登場人物のキャラが立ってないところがリアル
早く続き書けよ
続きないの?飽きたのか
おら書けよ
飽きたのかよ
適当に逃げやがって